語り継がれるHUBC:09.6800m ROW OUT、東大に初勝利

    第9回は、昭和28年卒の仲野 実さんです。

    • ・プロフィール
    • ・学生時代と戦争
    • ・入部動機
    • ・当時のボート部の状況について
    • ・東商戦について
    • ・ボート部以外の学生生活
    • ・会社勤めについて
    • ・ボート部に入ってよかったこと
    • ・現在のボート部員へ

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      仲野 実さんプロフィール

      氏名仲野 実(なかの みのる)
      生年月日1930年(昭和5年)11月21日
      出生地静岡県静岡市
      出身高校静岡県立静岡中学校(現:静岡県立静岡高校)
      入学年1948年
      卒業年1953年
      学部商学部(入学時は、東京商科大学専門部)
      ゼミ藻利重隆ゼミ(経営学)
      HCSS組
      勤務先三菱商事
      主なポジション整調

      学生時代と戦争

       生まれた時から戦争があるのが当たり前で、家に泊めた兵隊さんがその後、亡くなったことを聞いて、幼少期から「国のために勤めよう」という意志が強かった。中学1年の時に名古屋にある陸軍幼年学校に合格し、中学2年の途中に、終戦で解散するまで在籍していた。当時陸軍幼年学校に合格することは大変な名誉であり、合格者数が中学校のランクにも影響していたほどだった。幼年学校では、教師も生徒も優秀な人が多く、特にそこで学んだフランス語の勉強はとても為になるものだった。毎日2時間ほどフランス語の勉強をしていたので、一橋に入ってフランス語を選択した時に、2年間かけて学ぶ内容を1回も授業に行かなくてもきちんと理解できていたほどだった。  また、陸軍幼年学校では常に身の危険を感じていた。敵国から幼年学校の存在がばれていたこともあり、機銃掃射による攻撃を何度も受けた。爆弾による攻撃でなかったのは、陸軍幼年学校の施設を戦後に占領軍の施設をとして転用しようとしていたからだと考えられる。このとき、「死ぬのは簡単なことだ」ということを実感した。

      入部動機

       中学2年の夏休みに、焼津の海洋道場で行われていた海軍の訓練を10日間ほど受けており、その訓練の一環としてカッターと呼ばれる9人乗りの大きい海難用ボートを漕いだ経験があった。大学でボート部に入る気はなかったが、クラスチャンピョンシップにS組として出漕した際、未経験クルーに敗北してしまい、とても悔しく思って、勝つまでやろうという気持ちになった。さらに、当時の主将である三堀正太郎先輩をはじめとする先輩方から強引に勧誘を受けたことも大きく影響している。特に三堀先輩は実家が私の下宿先である荻窪から近いということもあって、毎日のように私の下宿先の玄関に座り込んで「君が入るまで、私はここから動かない」と言ったほど熱心な勧誘であった。

      当時のボート部の状況について

       ボート部に入部したのが戦後すぐの食糧難という時代であり、カロリー消費の多いボートというスポーツに対する世間の目は冷たいものであった。隅田川で練習していると、近所に住む子供に土手から「はらっぺらし」と揶揄されることもあったほどだった。また、一橋大学内でも同様で、部員の中にも共産主義に傾倒し、食糧難の時代にボートをすることに対して疑問を持ち始める者も出てきて、私が2年生になる前に9人いた1年上の先輩は3人に減ってしまった。 食事は配給の米やサツマイモだけでは足りず、マネージャーがヤミ米をかき集めてくれていた。また、試合前には闇市から肉を買ってきてくれることもあり、レース前日には、みんなでステーキを食べるときもあった。今のいうステーキとは違うが、とても美味しかったことを覚えている。  こうした食糧難の時代ではあったが、合宿所での生活は楽しかった。先輩も同期も個性が豊かで話が面白く、笑いが絶えなかった。また、全員のことをあだ名で呼びあうほど仲も良かった。一方、練習の時はみな真剣に取り組んでいた。基本、朝5-6時頃から始まる朝練、夕方15-17時頃から始まる午後練の二部練で、3000mや5000mといった長い距離を休みことなく全力で漕いでいた。そして、寝る前には、皆でイギリスのフェアバーンのrowing理論の本や日本のローイングノートを読み、キャッチの時のオールの入れ方などについて自分たちの漕ぎ方と比較するといった議論を毎日のようにしていた。英語の本は、内容を理解するために、一人ひとり1ページずつ担当箇所を決めて割り当てられた人が日本語に訳していた。ごはんを食べて寝る前ということもあって眠い時もあったが、議論するのは楽しかった。

      東商戦について

       第2回から第4回の東商戦に対校選手として出場し、第2回は5番、第3回は6番、第4回は整調だった。また、第2回は3000mレース、第3回と4回は6800mレースであった。6800mというのは、オックスフォード大学とケンブリッジ大学の対校戦の距離を真似たものである。最初5番だったのは、海洋道場でカッターをしていた時にバウサイドで漕いでいたからである。2年の時から対校選手として活躍できたことは、誇りだった。第2回と第3回の時は東大に負けてしまったが、第4回で東大に4挺身差で勝利できた。 その勝利、途中でへばってもいいからスタートから全力で漕ぐという作戦がうまくいき、途中の2000mあたりで東大に1挺身半程度の差をつけることができた時は、「これは勝てる」と思った。第3回まで、ずっと東大に負けていたので、勝った時は本当にうれしかったし、先輩方が踊りだすほど大喜びしていたのが印象深かった。

      ボート部以外の学生生活

       普段は朝練と午後練の合間に大学に行っていたが、レース前などは大学に行けないことが多かった。そのため、勉強面ではボート部以外の友人に大変お世話になった。優秀な友人は、試験前になるとノートを貸してくれたり、試験対策のために10-15人程度の学生を集めて、兼松講堂の前の芝生あたりで講義を開いてくれたりしてとても助かった。その講義は、要点をついていて、授業よりずっとわかりやすいこともあった。できるやつは教えあう精神に富んでいてとても親切であり、一橋に入学してよかったと思った。  ゼミは経営学を学ぶ藻利重隆ゼミに入っていた。ゼミの授業自体は厳しかったが、先生がよく通る声で論理的にわかりやすく話してくれた。また、先生とその奥様は面倒見がとてもよく、食糧難の時代でありながらも家でご飯をごちそうになることも多かった。藻利先生のゼミに入ってよかったと心から思った。

      会社勤めについて

       陸軍幼年学校が解散するときに「すべからく、国を興す勇士になれ」と言われたことが心に残っており、「興国」という名前にひかれて興国人絹パルプに入社した。最初は富山のパルプ工場に行き、4年半して東京に転勤後は、労働組合の書記長も1年ほど務めた。当時はストライキばかり行っていたため、「ストライキなどばかりしていないで、国のためにもっと働くべきではないですか」と発言し、ひんしゅくを買うこともあった。その後、興国人絹パルプがアラスカパルプに出資をすることになり、アラスカパルプに8年半勤務した。アラスカは森林が豊富にあったため、戦争中にほとんどの木を切り倒してしまっていた日本にとって、紙の原料となる木材を供給してくれる重要な役割を担っていた。その時に、2人の息子と2人の娘が生まれた。子供たちはアラスカで幼少期を過ごしたため、英語が自然に身についたようだが、このことは戦時中に学生時代を過ごした私からすると信じられないことであった。アラスカパルプの勤務後は三菱商事に勤めていたが、その時もアラスカパルプでの経験を買われてアラスカに出張することもあった。

      ボート部に入ってよかったこと

       社会に出る前の学生時代に、家庭環境が全く異なる人と同じボートに乗り、同じごはんを食べ、同じ歌を歌ったりして生活するということはとても貴重な経験だった。人脈が広がったことも良かったと思っている。同期だけでなく先輩後輩とも深い絆で結ばれており、今でもあだ名で呼び合ったりしているほどである。

      現在のボート部員へ

       今の学生は死にそうになるまで漕いでおらず、ここまで漕げばいいだろうと思ってしまっているように感じる。私たちが学生の時は、「Row out」という自分の持っている力を使い果たして漕ぐという精神が徹底しており、「死ね」と言われながら漕いでいた。ただ、これは、平和が当たり前である現在と「死ぬ」ことが身近だった昔の、環境の違いが大きく影響しているのだろう。いずれにせよ、今の学生にはもっともっと頑張ってほしい。




      お話を聞いて

       学生時代を戦争中に過ごしたということが、仲野さんの人生に大きく影響していることがわかった。特に、「今は平和なのが当たり前だけど、昔は全く違った」とおっしゃっていたのがとても印象に残っており、平和な現代に学生時代を過ごしている私は恵まれているのだと強く感じた。一方で、「合宿所では笑いが絶えなかった」とおっしゃっていたことについては今の私たちと似たようなものを感じ、楽しい艇庫での生活を大切に過ごしていきたいと思った(緒方奏)。

      仲野先輩、ありがとうございました。
      (文責:緒方奏)