INTERVIEW

語り継がれるHUBC
10.一人っ子 協調性培う4年間

第10回は、東瑞穂さんです。東さんは、対校マネージャーとして活躍されていた先輩です。


 
 

【東瑞穂さんプロフィール】

氏名東瑞穂(ひがしみづほ)
生年月日1931年(昭和6年)6月27日
出身地熊本県
出身高校都立立川高校
入学年1950年(昭和25年)
卒業年1954年(昭和29年)
ゼミ井藤半弥ゼミ
HCSS組
勤務先商船三井
端艇部での役職対校マネージャー

【入部動機】

 小平寮内の広場で昼食をとっていた際、ボート部の先輩たちが何人も現れ、「ボート部に興味があるやつは来い」と勧誘を受けた。その際ボート部の伝統や実績は何も知らなかったものの、「面白そうだな」と感じたことが、入るきっかけであった。また、大学に入ったら何か一つのことに打ち込み、やり遂げたいと思っていたこともあり、ボート部でその想いを果たせるのではないかと感じたのも動機の一つであった。そして入部した後も活動の動機となったのが、卒業祝いにもらうことのできる赤いブレードであった。これは対校クルー選手、対校マネージャー、代表幹事、会計幹事だけがもらうことのできる記念品であり、彼らの名前がそこに刻まれていた。それに憧れていた自分は対校選手かバックメン(現在のマネージャーの事を指す)になろうと思っていた。体格的理由から選手として活躍することは難しいと言われたため、クラスチャンピオンシップまでは選手として活動した後、2年次から対校マネージャーを務めることを決意した。

【当時のボート部の状況】

 戦後、物資の不足する中、食事を皆で分け合ったが、余り物はじゃんけんをして勝った選手で余すところなく食べるという状況であった。このような時代であっても、会計幹事としてOBの方々に部費を求め直接集金に伺う際には、自分の名刺を持って行けばどのOBの方々も快く会ってくれ、部費を援助してくれたものだった。先輩が後輩の就職の面倒も見てくれ、ボート以外においても先輩が後輩を助ける風土があった。以前、娘の就職を後輩に世話してもらったので礼を言うと「とんでもない。先輩にやっと恩返しができました。ボート部のときは、就職でも何でも困ったら、東先輩に言うと助けてくれましたから」というので驚いた。そのことを自分は全く覚えていなかったからだ。このように卒業後であっても先輩・後輩が助け合う関係は健在でした。部員同士はあだ名で呼び合う仲であった。本名は分からないのにあだ名だと自分のことを思い出す部員も後々会った際に多くいた。自分のあだ名は「ホッテントット」というものだった。バックメンとして東商戦に向け炎天下の中、ポールを担ぎ、地点毎にポールを立てるコース準備を手伝っていた際、コースを歩き回るうち、はいていたサンダルのひもが切れてしまい、裸足で歩く羽目になってしまったことがあったが、これを見た部員がこのようなあだ名をつけ、それ以来部員同士の集まりでは必ずこのあだ名で呼ばれることとなった。先輩、後輩、同期との間に体育会でしばしばあるようないじめやしごきのようなことは一切なく、先輩をはじめとした部員が多くの事を教えてくれた。

【艇庫のごはん・ボート部の活動の様子】

 五右衛門風呂のような釜に自分ともう一人のマネージャー、部で雇っていた調理補助を行う女性とともに、薪を放り込んで白米を炊いた記憶が強く残っている。当時まだ貴重であったコロッケを買ってきて、艇庫で出すこともあった。選手の中には「肉がどうしても苦手で食べられない」と涙ながらに訴える後輩選手もおり、彼のために卵焼きをこっそり出すこともあった。3年次からは会計幹事として部の運営費用を集めるため先輩のもとを足しげく通って集金活動を行った。

【他大のボート部の様子】

 向島艇庫には、隅田川で開催される早慶戦を控えた慶応の学生が合宿に来たりすることもあった。当時慶応艇庫は尾久にあり、彼らは尾久から荒川を漕いで向島までやってきて、ともに合宿生活を送った。東京工業大学も合宿のため向島の一橋艇庫にやってくることもあった。当時から、一橋大学の向島艇庫は他大学の端艇部が利用するほど大きく充実した設備であったと思う。

【楽しかったこと・辛かったこと】

 先輩がボート以外の様々なことを教えてくれたことが最も面白く、合宿生活を楽しいものにさせた。印象的だったのは、フランスの有名な歌である、ジャン・ギャバン出演の映画「大いなる幻影」の挿入歌「それは小さな船だった」を先輩が教えてくれたことである。また、選手は辛い日々であったと思うが、自分はバックメンの仕事の傍ら、合宿生活の中で先輩から新たな知識を得ることができ、面白い日々を経験できたと思っているので自分には辛かったという記憶は全くない。

【ボート部以外の学生生活】

 対校バックメンを務めた時は自宅を一カ月以上空けて選手とともに泊り込んでいたので、学校の授業にはあまり行かなかった。当時の大学の必修授業であった体育実技の一環としてボートも授業に含まれていたが、向島艇庫を利用する体育の教授に料理をふるまったところ、体育の実技では何もしなくても単位をもらえることができた。ゼミナールの卒業論文ではガリバー旅行記を研究テーマに据え、必死にまとめたことを覚えている。また3年次に大学で教職の免状を取った後、自宅近くの中学で英語の先生を務めていた。その際、師範学校を出た若い教師たちが生徒のことを熱心に指導する様子を見て、「自分は彼らの様にはなれない」と強く感じ、教師の道ではなくサラリーマンとして生きていこうと決意した。

【お仕事の内容】

 当初はものづくりに携わる会社に入りたかったため、あるメーカーへゼミナールの先生に推薦状を書いて頂いた。この企業から評価されていたものの、合格者発表時期が他企業に比べ遅かった。周りの就職先がどんどん決まっていく中、焦りを感じていた際に、大阪商船(後の商船三井)が補欠を募集していることを知った。そこでゼミナールの同期とともに申し込み、後に発表されたメーカーの内定を断って大阪商船に入社することとなった。入社を決意したのも、「電報一つ打てば外国から船がやってくる」というボート部の先輩の話に魅了されたことが大きかったと感じる。入社後は取引先への営業活動のほか、船舶のオペレーション業務を行っていた。またカルカッタへ駐在員として派遣されたこともあった。インド人との英語のやり取りが必須とされる職場で、英語を外国人に話すこと対し気おくれすることはなくなった。カルカッタの駐在員として国をまたいだ物流に携わる中、第二次世界大戦に日本が敗因した理由として、食糧のグローバルな物流ルートが確立されていなかった点が大きかったのではないかと痛感したと同時に、物流そのものの重要性を実感した。当時海外に十分な輸送手段が整備されていなかったため、海運業者は現地の総領事館からも重宝される存在であった。自分の赴任時は、印パ戦争の只中であったため、現地の情報を集め、日本の船舶に危険が及ばないようオペレーションを行うこともあった。帰国後、本社のある大阪では既に設立されていたボート部を東京で作った。その際、昔のボート部のつてで8社ほどの企業ボート部に声をかけ、レガッタを行ったこともあった。当時、企業では運動部をつくることが一種の流行になっていたこともあり、ボート部設立に携わった。

【ボート部が人生にどんな影響を与えたか】

 一人っ子だったためにわがままな一面もあったが、協調性は集団生活を行うボート部での日々により矯正されているというよりごく自然と身について行った。合宿生活が辛いと思ったことはなく、むしろ先輩がたくさんのことを教えてくれた楽しく面白い日々であった。自分の性格を無理に曲げようとすることもなく、人と関わる上で必要な術を自然と身につけられたことは、兄弟がいなかった自分にとって非常に貴重なものであったと思っている。

【現在のボート部へ】

 選手にはもっと強くなってほしい。時代とともに食生活も変化し、日本人の体格も変わってきているように感じる。だからこそ一橋ボート部も以前よりずっと強くなれるのではないかと思っている。そして強くなるには、楽しい生活だけではなく、厳しい一面も必須であると感じる。一橋大学が誇れるものとして、ボートは間違いなく挙げられる。このような自負を胸に、選手にはどうか頑張ってほしい。組織を強くしていくうえで、マネージャーの勤めるバックを支える仕事はきわめて重要であると社会人になって感じた。「なぜ自分はこんなことをやらないといけないのであろうか」と現役中思うこともあった。しかし、バックの仕事は誰かがやらなければならない、必要とされる仕事であるのだからと思いなおしつつ、活動を続けていた。マネージャーには与えられた役割の中で精一杯取り組んでほしい。また、部費の集金の際に先輩が後輩に直接会えなくなってしまっている現在の状況に寂しさを感じるOBの方々もいる。後輩が先輩の話を聞きたいと言えば、嬉しくない先輩はいない。もっと多くの現役に先輩OBの方々を訪問してもらえたらと思う。




【お話を聞いて】

 マネージャーの仕事は、功績として目に見えるものではないためモチベーションを維持するのが難しいということを感じる事が多かったのですが、東さんのお話を伺う中で、マネージャーの仕事がボート部に必要不可欠だということと同時に、ボート部生活が自分に教えてくれたことが自分にとって必要不可欠であったのではないかということに気づかされました。東先輩が協調性を集団生活の中で身につけられたと仰っていたように、仕事一つ一つ、関わる部員一人ひとり、そして集団生活の中から学んだことはきっと多くあるのではないかと4年間を思い返すと感じます。だからこそ、ボート部に感謝し、常に多くのことを教えてもらっている立場であるという意識を持てば、日々の仕事や生活も、さらに意味あるものとして自分に返ってくるように感じました。(竜澤佑佳)

東先輩、ありがとうございました。
(文責:竜澤佑佳)