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語り継がれるHUBC:19

19回目となります今回のインタビューは、昭和33年にご卒業されました原治平さんです。

インタビュー写真

・プロフィール
・ボート部に入ったきっかけ
・現役時代の部での活躍について
・部で印象に残っていること
・隅田川の商東戦の思い出
・学生生活について
・仕事について
・ボート部で良かったこと
・現役部員へのメッセージ
・インタビューを受けて、現役部員からの感想

原治平さんプロフィール

氏名 原治平(はらじへい)
生年月日 1934年(昭和9年)11月4日
出身高校 福井県県立藤島高等学校
入学年 1954年(昭和29年)
卒業年 1958年(昭和33年
HCS C組
勤務先 有機合成薬品工業株式会社

ボート部に入ったきっかけ

 自身が通っていた藤島高等学校は、県立高等女学校との合併により男女共学となっていた。しかし、男子校育ちの父からは「お前はたるんでいる」と叱られることが多く、その言葉を胸に、大学では本気で運動に取り組むことを誓った。友達と大学1年の時にクラスチャンに参加し、1週間の隅田川での練習を経て出場した。その後、ボート部から引き抜かれて入部した。当時のクラスチャンは指名制、希望制でクラスチャンに出場した人はほとんどがボート部にほぼ自動的に入部をするというような風習があった。この背景には、現在でもボート競技が一橋大学を代表する競技であるように、当時もボート部は大学内の一大勢力であり、「橋人皆漕」という言葉が存在するほどであった、ということがあるだろう。

現役時代の部での活躍について

 2年時に、春のHCS大会において、ジュニアの2番シート、ストロークサイドで出漕した。4年時にはバックにまわり、会計、資金集めを含む、四神会の予算の監査を行っていた。

部で印象に残っていること

 (オックフォード大撃破)自分自身は大学を昭和33年に卒業したが、翌年34年の商東戦・全日本選手権・朝日レガッタで優勝したこと、なかでも全日本でデッドヒートの末、オックスフォード大を撃破した優勝はひときわ印象に残っている。戸田の岸側からは、一橋、オックスフォード、東北大の順で並んでおり、観戦者たちはNHKの放送車からの実況に耳を傾けていた。一橋とオックスフォードがほぼ同時にゴールしたため、NHKはオックスフォードの勝利を誤って伝えてしまった。しかし、写真判定の結果、約25cm差で一橋の勝利が確定。この白熱した戦いの末、一橋は大勢の人々から多大な感謝を受けたことを、今でも鮮明に覚えている。 (向島艇庫) 当時、一橋大学の艇庫は東京都墨田区の向島に東京大学の艇庫と並んで建てられていたが、首都高用地として買収された。昭和42年に向島艇庫惜別式が行われてとうとう解体された。当時の墨田川には死んだ魚などが浮いており、川は決して綺麗ではなかったけれど、懐かしい場所である。 (相模湖艇庫合宿所) 現在ゼミ合宿などでも使用される相模湖艇庫合宿所は、向島艇庫の機能補償としての立ち退き金を利用して建設されたもので、ボート部を中心とした施設であった。一時は大学が手放す話もあったが、学長に利用促進の要望書を出した。その後、利用を高めて現在に至っている。 (遠漕) 当時は遠漕の歌があったほどに、毎年の恒例行事だった。ボートシーズン終了後、向島艇庫から野田運河を通って銚子まで遠漕が行われていた。年末に大学ごとに日にちをずらして遠漕を行っていたと思う。先輩と一緒に行くのだが、1,2年生が漕ぐことが多かったので、早く先輩になって漕がなくてもよくなりたいと思っていた。利根川の神崎で「洗礼」を受けるのだが、その後で「なんじゃもんじゃ」という木のある神社にお参りするのが通例となっていた。

隅田川の商東戦の思い出

 商東戦は昭和26年までは2000mコースであったが、昭和26年から昭和36年まで、オックスフォード大学とケンブリッジ大学のテムズ川での定期戦と同様にして、4と¼マイルの距離で開催されていた。隅田川のボートコースは、現在戸田で行われているような2000mの直線コースではなく、蛇行したコースだったため、どちらが勝ったかが分かりづらかった。敗者はローアウトし疲労困憊の様子で戻ってくるのに対し、勝者はレースで全力を出したはずなのに精力的なまま帰還する、その様子が印象的であった。 向島時代は、ボート部員は艇庫からレースを観戦した。ボート部以外の観客の多くは隅田川にある11の橋からレースを観戦していた。当時のレースはエイトでも20分以上かかり、その蛇行したコースの特徴からインカーブやアウトカーブで一艇身の差がついていても巻き返すことができた。風や潮の影響で艇が曲がりやすかったが、ボートの技術で船が通った後の波をうまく処理していた。航跡波に下手に当たってしまうと沈や破損の危険性があったため、細心の注意を払っていた。レースに際して事前に船を止めるにはお金がかかってしまうので止めることはできなかった。 余談だが、練習中に渡し船が通ることも屡々あり、また雨が降るとボート内に雨水が溜まり、風が強いと波がしらが立ち、沈することもあった。雨水が溜まった際には柄の短いしゃもじを使って水を掻き出していた。隅田川の思い出は尽きない。

学生生活について

 (ゼミ) 学業面で特に熱心に取り組んでいたのはゼミである。ゼミが必修なのは一橋大学の大きな特徴であるが、まじめにゼミでの研究に取り組んだ。美濃口ゼミの第1回ゼミ生であり、現在でもゼミ会長に就任している。 (卒論) また、ゼミの話とも共通するが、卒業論文を書く際に苦戦したのを覚えている。卒業論文は、当時、本が自立する程度(100枚ほど)の枚数を書くように言われていたので、薄いままではいけないと思い、図書館に残って作成した。 (ボート部のほかに) さらに在学中はボート部のほかに、国際部にも所属しており、英語劇の裏方の仕事も行っていた。また、仲間との日々も大切なもので、ゼミやボート部の仲間とのつながりはとても強いものだったように思う。

仕事について

 製薬会社に就職した。海外で仕事をすることが多く、薬の原料となる植物の買い付けなどのために、40ほどの国々に出向いた。アメリカには合計3年ほど滞在した経験もあり、アフリカの象牙海岸など、当時発達していない地域にも出向いていた。就職してから10年ほど経過したころには会社のボーナスのような形でアメリカ留学にも行った。家族とともにアメリカを訪れ、MITで学んだ。

ボート部で良かったこと

 何度も言うようだが、かけがえのない仲間と会えたこと。当時は大学の1学年が400人程度だったこともあって学内の多くが知り合いであったし、今現在の交友関係すべてにボート部や一橋の仲間が関係している。4年間の濃い時間をともにした仲間との絆は人生を豊かにしてくれた。

現役部員へのメッセージ

 これほどまでにいい大学のいいスポーツは他にないだろうから、全力でボート部生活を楽しんでほしい。部活というのは実際に入ってみないとわからないものだが、仲間意識というかけがえのないものを得ることができる場である。社会に出た時や結婚するときなど、人生は一人では生きていけないものなのかもしれない。そんな時にボート部で得た仲間や仲間意識が非常にプラスになるだろう。なかでもボート部は一橋に古くから存在しているため、一橋の良さが伝統的にも一番残っている部活なのではないかと思う。自分自身が濃い人生を送ることができたのはボート部に入ったからだといっても過言ではない。現役部員の皆さんには、ぜひまじめな時はまじめに、ただし健康には気をつけて、頑張ってほしいと思う。




インタビューを受けて、現役部員からの感想

 原さんのお話をお聞きして、当時の一橋大学やボート部の様子を伺うことが出来て非常に興味深く、特にボート部で出会った仲間のかけがえのなさを身に染みて感じました。このようなお話を伺えたことは人生でもなかなかない貴重な経験となりました。今回の経験で学んだことを今後の生活に活かしていきたいと思いました。(内田) 入部から約1年が経ち、ボート部での生活の1/3を終えようとしていることに深い感慨を覚えています。今回、貴重なお話を伺い、ボート部の伝統や仲間意識の大切さを改めて実感しました。ボート部での生活は時が経つにつれて変化していきますが、140年の歴史を持つHUBCのボートへの情熱は、今も昔も変わらないと感じました。これからも仲間との絆を大切にし、共に成長し続けるボート部生活を築いていきたいと思います。この貴重な経験に心から感謝し、ボート部の一員として日々精進してまいります。(桑田)

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