歴史を語る資料:01.「吾人屁理屈を知らず 幸いにして元気あり」


     この言葉の後半は「為艇友 幸有元気」として、戸田艇庫の前の石碑(*注)の陶板に焼き付けられているので、現役諸君を含め四神会会員・一橋関係者等には親しい言葉となっている。
     今端艇部資料の整理を行っているが、資料室にはこの言葉を書いた書軸(揮毫は村松祐次端艇部長で畑弘平氏に贈られたもの)が伝わっている。

     資料委員会の委員から「これは!」という資料として挙げられたものであり、何か謂れのあるものとして印象深かったということで、これを機会に謂れのあるところを紹介して置きたいと思う。
     この言葉は菅禮之助氏(明治38年卒業・S組)の作と伝えられており、永く一橋ボートマンが思いを寄せてきた言葉であるが、活字になった初出としては、『一橋會雑誌』(明治38年)の岩下家一氏の「漕艇管見」という記事である。末尾の添書きに
     「我輩屁理屈を知らざるも幸いにして元気あり、これ我端艇部の鉄律ならずや、徒らに筆舌を上下しても何の益なし、宜しく之を実地に試みて一家独創の判断を下すべし、予も亦自ら進むで向嶋の実地に当り、諸君と共に漕艇の何者たるやを学ばむことを期す。」
     とあるのが最初であろう。
     この「漕艇管見」の「緒論」(ボートは何ぞや)と末尾の添書き(屁理屈)は菅氏による記事で、「研究の範囲と方法」(漕艇術の力学的理論的研究)が岩下氏による記事であり、謂わば親友二人の合作である。何故岩下氏だけの名前になっているかは、詳しいことは省くが、当時菅氏は「(日露戦争勝利)提灯行列事件」の首謀者として松崎校長から放校処分を受けており、自分の名前を出せない代わりに岩下氏に勧めて書かせたものである。(『一橋ボート百年の歩み』P48~50、及び資料編P278~281を参照されたし。)
     「徒らに筆舌を上下しても何の益なし、宜しく之を実地に試みて一家独創の判断を下すべし」という意味の言葉であるが、他にも「緒論」の中で「屁理屈」と「元気」について触れている処がある。
     「斯道の先覚者は、体育に加へて知育情育意育の諸方面よりボートを論ず、予は大いにこの説に賛成するものなるは告白す、ボートを只に一の体育的器具として認むるは陳腐なる旧思想なり、予は漕艇を以て近代に於ける武士道の一なりと確信す。然れども予は爰にボートを精神的方面より論ずることをせざるべし、ボートなる観念を抽象して心身の修養問題に論及するは不必要のことと云はざれども、これ予の不得手なる所なる而巳ならず、理屈は何とでも附くものなればなり。」また「我端艇部は已に自ら元気に於て何者にも譲らざることを自覚して確信す、この元気は維持せざるべからず、而して更に更に向上進歩せしめざるべからず也。」とある。
     この言葉が生まれた当時、ボートは隆盛期を迎え、レースの様子は帝都を大いに興奮させたと言われている。ボートは「西洋文化としてのスポーツ」として受容されたものであるが、柔道・剣道のような歴史や「道」としての裏付けにも乏しかった。ボートとは何か、何故漕ぐかという命題が生まれることは自然であったといえる。
     菅氏は「漕艇とは何ぞや」ということについては
     「学問せむが為に学問するは真の学問なり・・・競漕の為にのみ船を漕ぐ謂れありや・・・漕艇なる一語中には詩趣、和楽、団結、元気、同情、幾多の好文字を包含す、「漕艇の為に漕艇せよ、」之を漕艇の根本観念となす。」と言っている。
     明治初期のボート導入期に英国人ストレンジ氏は「オアズマンシップ」を掲げたが、多くのボート関係者が「ボート論」を戦わしたことと思われる。
     菅氏自身がこの言葉の伝播について語った記事がある。
     昭和4年に書いた「漕艇管見の諸論其他」に「吾輩屁理屈を知らざるも幸にして元気あり」の後に、
     今年或機会に久し振りで学生のボートの会に出席した時、学生が座間此標語を使ふのをチラホラ聞いた。こんな拙い標語が二十五年後の今日まだ少しでも伝はって居るのかと一寸驚きもしたが、同時に其頃のボート仲間が急に偲ばしくなったことであった。
     と書いている。同じようなことが『裸馬先生愚伝』(石井阿杏著・昭和46年)にも書かれている。菅氏主宰俳句結社「同人」に連載された「足跡」を石井氏が纏めたものであるが、「屁理屈」の項に
     ・・・・S組会員を前にして・・・・大演説をブッた。結語に曰く「吾人屁理屈を知らず、幸にして元気あり」このキャッチフレーズ、在学中即ち六十年前の先生作であるが、いまでも一橋端艇部での一枚看板の由。
     と書かれている。「屁理屈・・・・」の言葉には細部に多少の違いはあるものの、菅氏の言葉として間違いないと思われる。
    ●『一橋ボート百年の歩み』(以下『百年史』という)にも多く引用されており、以下に紹介したい。
    1. 通史編:明治36年(P42~44)の項より
     一橋会とH・C・S制の確立という制度的な充実の伴い、一橋精神は大いなる昂揚期を迎える。この年の冬、薄ら寒い柔道部の一室で、「六々会」(註1)なる一団が結成式を挙げた。ボートメンや柔道部員を中心に、学内有力者を加えた総数21名で、端艇部の精神を振りかざして校風の改善を意図する者達である。六々会のスローガンは会員たちの胸にしっかりと刻みつけられていた。曰く「吾人屁理屈を知らず、幸にして元気あり。」
    (解説)
    この記事は『一橋五十年史』の記事が元になっていると思われる。記事によれば、明治30年頃から学生の間に、開校以来20年が経つのに「総てに一橋の名を冠するに足る程の統一と連絡」がないという危機感があり、各論としては寄宿舎の設置、機運としては商業大学論にも及ぶとともに、卒業生による「同窓会」の成立もあり、「一橋会」が明治35年11月1日に学生組織として設立された。設立に伴い校風の確立に「直進」したのが「六々党」(註1)であり、目的のために鉄拳をも辞さなかったという。この制裁は学校当局の知る処となったが、手段の是非は措くとして同党の活動は草創期の一橋会への貢献は大きかったという評価である。しかし、党員の卒業と共に党は姿を消したと記されている。菅氏『如意団25周年記念』「如意団以前」によれば、明治36年に出来たから「六々党」と名乗ったそうである。スローガンの原作者が菅氏であるならば、菅氏が「六々党」の活動に係わっていたのではないかという推測も成り立つが、「如意団以前」には直接的な記述はなく、今のところ詳細は不明である。
    (註1):『百年』の「六々会」という名称は「六々党」の間違いであろう。
    2. 資料編:「専門部エイトの回顧」大森吉次郎(昭和6年専門部卒)(P330~337)より
     昭和5年の当時・・・、専門部には「伝統」という神符からくる重圧がなかった・・・が、「吾人屁理屈を知らず、幸いにして元気あり」という一橋ボートの伝統精神の方を完全に具現したのもまた専門部クルーだと信じている。オーソドックスだのフェアバーンだとセオリーをいじる資格もないほど経験乏しい8人に対し、コーチもかれこれ理屈を言わなかった。即ちいやでも「屁理屈を知らず」である。元気という点では・・・ただいっちょうやろうぜの内面から発し、前方の栄光のみをひたすら追求した純粋真物の元気であって、頭を張られて歯をくいしばって出そうとしたムリな元気ではなかった。(付記:大森氏は漕手ではなく専門部端艇部代表幹事である)
    (解説)
     大正9年の東京商科大学設立(大学昇格)に伴い、本科である商学部(修業年限3年)と予科(修業年限3年)の他、附属商学専門部(高等商業学校に相当する課程、修業年限3年)・附属商業教員養成所(修業年限3年)が設置され、記事の昭和5年当時専門部はまだ出来たばかりで全生徒は700名程の小所帯であった。そのような中で初めて専門部独自のエイトが組まれたのである。艇はH・C・Sの各チャンの残り物の、安定の悪い、埃を被った、真っ赤に塗った「アカ艇」が宛がわれた。ところが、併せて漕歴も短い、資金もない中で、「ロンドン盃」に優勝することになる。このレースはインターカレッジの秩父宮杯に手の届かない十両クラスの学校のために作られたと言われているが、優勝した「アカ艇」は、試しに川で並べてみるとフェアバーンの新漕法の研鑽に励んでいる幕内である本科のチャンよりも早かったのである。大森氏の記憶では、初めてエイトを組んだクルーに対する中山克己コーチの指導は「ただフネをひっくり返さないようにしようというという基礎目標に重点がおかれ、たとえばフィニッシュをできる丈け長くというような若干の漕法上の指導はあったというが、絶対に力を入れるな、ラクに漕いでどこまでもフネになれるようロング、ロングパドリングを毎日くり返せということに最重点がおかれ・・・どうやらこの分では、はじめの御言葉は冗談ではなかったのかと思い直される程徹底したもののようであった。」という。こうした背景と共に大森氏の記事を読むと彼らにとっての「理屈」や「元気」の意味も理解されるであろう。
    3. 資料編:「銚子遠漕」(昭和6年~7年)笠原文雄(昭和8年専門部卒)
     銚子遠漕を目的によって大別すると、1はレガッタに備えての練習の一環として、漕法の訓練、スタミナの養成、クルーの精神的結合の強化をねらって行うものであり、他の一つは主としてボート部員の親睦を狙った行楽的なもので乞食遠漕とも称する。・・・6月の末ともなると、大学の食堂あたりに各部の夏のスケジュールが貼り出される。この銚子遠漕プランも、「刀水百里を漕破・・・・・・」「吾人屁理屈を知らず、幸いにして元気あり・・・・」とか勇ましい名文句と共に貼り出される。
    (解説)
     大森氏の記事と併せて、「屁理屈・・・」の言葉が本科・予科・専門部を問わず広く一橋端艇部員や一般学生の口に上っていたことが判る。
     笠原氏は大森氏の2年後輩であり、上記のロンドン盃を漕いで優勝している。
     大森氏の記事は昭和5年の出来事であるが、同じ専門部の笠原氏は昭和6年7年のインターカレッジに対校として出漕しており、また中山コーチも昭和7年8年のインターカレッジのコーチをしているので、専門部端艇部員も対校選手となれるようになったし、中山コーチも出世した様である。大森氏の記載する専門部の出来事は昭和5年だけのエピソードと考えられる。しかしながら、その後も専門部端艇部は特有の文化・矜持を持ち続けたようで、「語り継がれるHUBC」の大塚秀二さんの語る「専チャン」への拘りも理解できる。
     因みに銚子遠漕は、明治31年に一橋が初めて行ったものである。以来多くの学校によって銚子遠漕が行われてきた。現在遠漕を行う学校は少数ながら残っているようである。

    4. 『百年史』から離れるが、諸本に於ける引用には下記のような例がある。
    ①『長煙遠く棚引きて』(昭十五学部如水会出版部会・昭和57年)の菅野健児「墨堤に偲ぶ」: 昭和10年10月菅野氏予科2年の秋に「クラス仲間」と「明治神宮体育大会端艇競漕」(今の国体の様な競技会)への出漕を文部省体育課に申し込み、レースについてノートへ書き込んだもの。11月2日の決戦では慶應に敗れてしまった。
     残念ながら僕は今その日の模様を余り詳しく記したくない。・・・クラスや応援の諸兄に申し訳なく、また同好の士の任意参加とは言え、母校のボート部に対しても甚だ申し訳ない結果となったからである。」「我々七人はこれによってますます級友間に親密の度を増し、団結と協調の尊さを知り、常に明朗にして元気溌剌、正々堂々の戦いを進めるスポーツマンシップの一端を会得できたと思う。これこそまさに勝敗を越えての大きなみのりであったと言えるのではなかろうか。斯くして、ボートメンの豪気闊達さは、こうした勝敗や感傷を超えて、時に我々に次のように呼び掛けてくるのだ・・・「吾人屁理屈を知らず幸にして元気あり」と。
    ② 昭和53~57年まで監督を務められた高橋泰和氏の追悼集の題名は『幸いにして元気あり』である。故人が常々好んでいた言葉を、奥様が本の題名に選んだとのことである。追悼集中、戸田敬之氏(昭和32年卒C組の級友)は、「高橋泰和君を偲ぶ 太陽のような存在」に
     北海道の学力テストで全道で二番という秀才でありながら、彼はあえて学業に專心する道を選ばず、ボートに青春を燃焼させる道を選びました。すべてに弱音をはかず、ぐちらず、人をそしらず、明るく前に向かって進む彼の姿は実に壮快であり、部のモットー「吾人屁理屈を知らず 幸いにして元気あり」を全身で表現している感がありました。そして対抗選手として、又その主将として、全日本で一位二位を争い続けました。
    と書いている。
     また、坂東正章さん(昭和55年卒)は、高橋泰和氏が監督時代に、一橋クルーがブレドの世界漕艇選手権に派遣された時のメンバーであるが、追悼文に、
     「幸有元気」。私は、監督が亡くなったことで改めてこの言葉をかみしめています。それはもちろん、私いま、幸い病気もせず生活を送れているという狭い意味ではありません。
    と記している。
    ③ 先の「六々党」の構成員に柔道部員が入っている。それは当時端艇部・柔道部は親しい関係にあったからである。では、今でも「屁理屈」のスローガンは柔道部に伝わっているであろうか、と柔友会関係者に問い合わせたが、その言葉は聞いたことが無いという答えであった。
     ただ『柔友会80年史』には菅禮之助氏に関して次のような紹介がある。
     一橋会理事・編纂部・ボート部・如意団の大立者で、ボートの金言「吾人屁理屈を知らず、幸いにして元気あり」の原作者でもある。
    なお、この記事の本題は、一高との5回の対戦で一度も勝てなかった端艇部員が、柔道部員となって対一高柔道戦を企て、ボートの遺恨を晴らそうとしたが敢え無く破れてしまった、という話である。この話は『百年史』にはない。
     以上、「吾人屁理屈を知らず 幸いにして元気あり」の原作者のことと、この言葉がどのように理解され、引用されてきたかを探ってみたものである。多くの場合、ボートを漕ぐという経験を通じて得た実感を切っ掛けとしてこの言葉を引用しており、机上の引用ではないようである。引用者の解釈はそれぞれに時代を反映しているともいえる。今後この言葉がコーチ学・指導理論の発展のなかでどのように引用されてゆくのであろうか。
     学生に聞いても「幸有元気」は知っていても「屁理屈」の部分は知らないという。現時点で考えれば、「屁理屈」という言葉自体の古臭い感覚は否めないし、説教めいた投げかけの言葉としては若い人達には受け入れにくいものがあるだろう。
     この言葉は、これから時代にふさわしい新しい感覚の言葉に生まれ変わることができるか、あるいはただ消え去ってゆくのか、見極めが付く訳ではないが、原作者がそうであったように現役の選手が新しい表現を掴んでゆくことになるのだろう。リオ五輪に出場し東京五輪を目指しているボート選手中野紘志さんが2016年12月5日のブログにこの言葉を引用している。
     我屁理屈を知らず。幸いにして元気あり。よくわかんねーんだよ、だから元気なんだよ。
     中野さんの思いは、少し乱暴な言い方であるが、「屁理屈・・・・」という言葉さえ「屁理屈」なのだということであり、中野さん自身「屁理屈垂れて行動する、もしくは行動しない、そのような人間にならないよう、日々生きようと思います。」と語っている。漕艇界にかつて居なかった「プロ」として、ボートの新しい世界を切り開くメッセージを期待している。 (一橋大学の他の運動部史・同期会年史・他大学端艇部史等も検索中であり、判明分を付記する予定。)

     (*注)戸田艇庫前の「為艇友 幸有元気」の碑は、昭和51年11月建立。昭和45年川端氏・河村氏2名の荒川遭難と昭和38年村上氏の死亡を念頭に「安全祈願碑」として建立されたものである。「幸有元気」という言葉への思いと安全への思いを伝えている。