語り継がれるHUBC:05.ボート界の代幹&データマン

    第5回は、昭和26年卒の畑 弘恭さんです。


     
     

    畑 弘恭さんプロフィール

    氏名畑 弘恭(はたひろやす)
    生年月日1927年(昭和2年)6月17日
    出生地福岡県北九州市戸畑区
    出身高校福岡県小倉中学校
    予科入学年1945年(昭和20年)11月予科入学
    卒業年
    ゼミ佐藤弘(経済地理学)
    HCSC組
    勤務先太平鉱業(現三菱マテリアル)→東工学園事務局長
    主なポジションマネージャー

    ボート部に入ったきっかけ

      昭和20年終戦に伴って陸軍経理学校から東京産業大学予科(当時、一橋大の前身)に転入学した。11月15日入学宣誓式があり、同23日新嘗祭(祭日)に端艇部向島艇庫へ行き、フィックス(固定席艇)と呼ばれる艇に乗った。海軍のカッターのように重量があり、木の台に乗せられた艇を押して水面に出した。
     父親が一橋のボート部出で、かちかちのボート屋、第2回インカレの優勝クルーだったので言われなくても一橋に入ったらボート部に行くしかないと思い込んでいた。終戦時に父は北海道に居り、通信事情が極めて悪い時期に同期の友人に電話を掛けて、やっとの思いで転入学の手続きを取ってくれた。その後、僕の次弟、三弟、四弟も一橋のボート部に入った。昭和40年頃、大阪に赴任していたときに、雑誌取材を受け家族で写真を撮るから出て来いと言われ、父をコックスに家族5人でフォアを漕いだ。残念ながら5人のうち現在生存は私一人になってしまった。父はボート行事には常に参加していたし、日本ボート協会の副会長になってわが国ボート界の発展に寄与したと信じている。

    ボート部での生活

     国立の旭通りの突き当たりにあった一橋寮に1年間ほど住んだ。もともと軍隊の兵舎として使われていてベニヤ板で作った粗末なもので、部屋の板の間からペンペン草が顔を出していた。学校から向島艇庫まで2時間はかかった。山手線の御徒町で降りて都電で向島まで行き、艇庫まで歩いて5~6分。合宿時には布団を入れた大風呂敷を担いで行き来し、結構大変な事だった。合宿は春のHCS大会前に2週間ぐらい、対校選手はインターカレッジ前2ヶ月ぐらいだったと思う。
     昭和24年、明治20年代に繰り広げられ当時の東都を湧かせてとされる「一高・高商対校戦」を復活させようとの議が起こり、両校OBの協議が行われた。今日の「東商戦」スタートに立ち会えたことも思い出深い。第1回のプログラムは手書き・ガリ版刷りで間に合わせたものである。
     当時ボートレースは、校内のHCS大会が春の恒例行事であった外は、協会主催のインターカレッジ、全日本選手権、高専大会ぐらいで少なく、指定された練習日にはあまり学校へは行かなかったように思う。交通事情もあって、練習日は午前10時艇庫集合が多かった。学部2年の年に会計幹事になり、艇庫に泊まることが多くなった。ゼミの佐藤教授には大目に見て貰ったが、余り覚えられていなかった。
     昭和24年には大学自治会の運動部理事になり厄介な理事会に出席し、25年には学園創立75周年記念行事の一環として大がかりなボートレースを開催されたことも記憶に残る。現在大学の校歌である「武蔵野深き」が作られた年でもある。
     漕手になれなかったので、専ら裏方の生活になったが、それでも対校選手に怪我などで欠員が出ると、サブとして乗艇練習の機会は与えられたので、最近までマスターズの大会にも参加することが出来た。またボートマンにとって、戦前から銚子遠漕は憧れだったが、当時は食糧難の時代でもあり、また江戸川を遡って利根川へ抜ける利根運河も通行できない状況にあったので、野田遠漕を行った。

    マネージャーとしての仕事

     昭和22年、対校の合宿に入ったが、母親の病気の為に帰宅し結局漕手として参加が出来なくなり、この時からマネージャーへの道を歩むことになった。
     マネージャーは、理事(現在の代表幹事)と会計幹事の2名しかいなかった。飯炊き、買い出しなどコックスの手伝いなどを加えて何でもやったが、特に米の配給時代でもあったので買い出しと寄付金集めに奔走した。
     寄付金集めでは、先輩を頼って会社を訪問し、周りの如水会員にもお願いして10円、20円の寄付(現在の1000円、2000円か)を頂き、さすが一橋ボート部の伝統を味わった。昭和24年からは一口100円の口数制度を立ち上げ、今日の制度につながった。
     飯炊きは今のようなガスは無く、当然賄いの人も居らず、最初は川を流れて艇庫の桟橋に引っ掛かった廃材を引き上げ、乾かした材木をかまど(・・・)で燃やし煙にむせるなど苦心した。
     上記22年のインカレでは「エイト」「フォア」とも優勝し、嬉しさと、漕手でなかった残念さが行き交う年となった。この頃食糧難の時代で、地元向島の花街の芸者衆から配給のトウモロコシ粉を手に入れ、艇庫で手作りのパン焼き?で黄色いパンを作り腹を満たしたこともあり、トウモロコシで優勝したなどと言っていた。部員のお母さんが闇米を準備して下さり、千葉県との県境で警察の取り締まりをくぐって無事持ち帰ったり、フィックスを漕いで戸田まで薩摩芋を貰いに行ったり、思い出は少なくない。

    当時のボート部

     向島の鉄筋コンクリートの艇庫は東大艇庫と並び偉容を誇っていた(現在の首都高速向島ランプの入り口付近に在った)。1階は艇・オールを収容、2階はHCS各組の合宿室、バック台室と事務室、3階は対校選手の合宿室になっていた。3階は対校選手以外立ち入り禁止だと教えられ、学部2年まで入室したことが無かった。一方、木造の別棟には,食堂、炊事場、管理人の部屋があった。戦時中、艇庫は軍事物資の置き場に利用されたが、幸い空襲の被害を受けること無く終戦を迎えることが出来た。本学と隣接する東大の艇庫が残ったために戦後のボートの活動が回復することが出来たとされる。終戦直前は、艇もオールも使用されることが無かったが、痛みが激しかったので、管理人の山本さんが修理してくれて助かった。戦後初めてエイトが建造されたのは昭和23年9月で「くにたち」と命名された。
     戦中から戦後にわたって地下水の汲み上げが盛んに行われたため、周辺地域の地盤沈下が進み、艇庫でも艇の出し入れ口が沈下し、艇の腹を擦らないように気を遣った事も思い出される。
     終戦直後の部報などによると、「艇庫設備修繕費」として文部省や大学からの補助金が記載されているが、3年後からは、一橋会という大学からの運動部予算を割り振る組織はあったが、わずかな金額で、殆どが先輩からの寄付金と選手の自己負担で賄われていた。選手の負担も大変で、多くが家庭教師などのアルバイトをやっていたし、僕も消費者家計調査(CPS)のバイトをやったことがある。
     食糧事情も、主食の米は原則として配給制だったので、米の現物を持参して合宿に入り、所謂「闇米」でカバーしていた。副食は買い物かごを下げて、八百屋・魚屋を回り、薪を割って飯を炊き、味噌汁や豚汁をバケツに入れて配膳した。学校からの帰りに神田駅のガード下で、進駐軍残飯の「栄養補給」もした話も当時の語り草である。

    卒業後のボートとの繋がり

     昭和26年卒業後太平鉱業(株)に入社して香川県の直島に赴任した。そこでは毎年、所内のボートレースが行われており、固定席のフィックスの漕ぎ方を教えたりした。10年ほど地方勤務をして昭和36年東京に戻り、38年に東京都ボート協会の理事になった。翌年の東京オリンピックがタダで見られると喜んでいたら大阪に転勤になり、開通10日目の新幹線で上京、戸田のスタンドから観戦した。  昭和42年に東京に戻り、早速三菱の社内レガッタに加わり、44年に日本漕艇協会の理事に選ばれ、今日に至る長いボート界との係わりがスタートした。以来協会の機関誌「漕艇」(平成10年に「Rowing」に改題)の編集委員になり、会社を休んで国体の取材にも10回以上出掛けた。平成18年に各大学のOB・OGで作っている日本オアズ・マン倶楽部の会長になり10年目、一橋のボートより日本のボート界にご縁が深くなった。
     こんな事で記録の整理・保存のために資料を整理することに注力している。これまで「漕艇75年」「東京都ボート50年」「日本オアズ・マン倶楽部60周年の歩み」「JARA DATA FILE」「一橋ボート部データファイル」などの大部分ないし全部の編集に関わることが出来た。この外、個人的な趣味の一環として、世界のボート切手の収集に努め、現在250種余りを入手することが出来た。オリンピックの開催に合わせて発行されるであろう新種に期待している。
     平成14年に「体育功労者」と言うことで、東京都体育協会・石原慎太郎名の表彰を頂くことが出来た。

    辛かったこと

     正直に言うと、選手になれなくて残念だった。漕いでレースの醍醐味を味わいたかった。敢えて漕歴を言えば、HCS大会3回、予科専1回、高専大会1回のみ。勝ったのはHCSの1回だけ。
     しかしバックメン達の援護があって初めて選手の諸君がレースに臨んで実力を発揮出来ることは言うまでも無いことで、この面では他のどなたにも負けない満足感を味わっている。

    ボート部やその後のボートとの係わりが人生に与えた影響

     ボート関係に限られるが、いろいろな学校の人と幅広くお付き合いすることが出来る。現在約280人の会員を持つ日本オアズ・マン倶楽部、日本ボート協会、東京都ボート協会、その他の関係者など付き合いの幅も広く楽しい。マネージャーをやって人のお世話をする機会も増え、同期会の幹事や地元自治会の会長を引き受けている。

    現在のボート部へ

     第一に、とにかく強くなって勝って欲しい。全日本にも手が届くところに来ていると期待する。東商戦は今年8連勝、タイに漕ぎ着けるにはあと17連勝をと期待が高まる。もちろんフォアも、ペアも、スカルも・・・。
     ボートは選手が後ろを向いて力を発揮する唯一のスポーツである。お互いを信じ合いながら全力を集中することで素晴らしい結果を引き寄せることが出来る。
     第二に、日本のボート界の普及、強化、発展に選手、OB・OGの協力をお願いしたいと考えている。従来ともすれば漕艇協会の役員には遠慮がちなきらいがあったが、学内だけのボート競技ではなく、地方の、日本のボートを普及し強化するとの観点から、有力校として、取り組んで行く必要があると考えている。




    感想

     畑さんの家はボート一家ということもあり、畑さんのボートとのつながりの深さを感じたインタビューだった。大学卒業後もボートに関わられていて、特にオアズ・マン倶楽部の会長として、様々な記録の整理や本の編集に携わっていらっしゃるのは印象的だった。よくボートのつながりは一生だと言われるが、畑さんはその言葉通りの人生を歩まれていて、ボートは大学生活に留まらず生涯にわたって関わることのできるスポーツなのだと改めて感じた。 。

    畑先輩、ありがとうございました。