語り継がれるHUBC:16.四神会の立役者、続くボート部愛


     
     

    小野早苗さんプロフィール

    氏名小野 早苗(おの さなえ)
    生年月日1932年(昭和7年)4月3日
    出身地新潟県。その後静岡の三島へ
    出身高校静岡県立沼津東高等学校
    入学年1952年(昭和27年)
    卒業年1956年(昭和31年)
    学部商学部
    ゼミ古川ゼミ
    HCSC組
    勤務先三菱化成
    端艇部での役職漕手


    当時のボート部での生活

     当初は違う部活に入っていたが、HCSの対校をきっかけに自らの意思でボート部への入部を決めた。周囲からの反対はなかった。
     当時は食糧不足が深刻で、常に腹が空いて仕方がなく、食事はあるだけでなんでもよかった。
     当時の先輩後輩の関係は良好で、仲が良かったが、対校選手とそれ以外の選手の間には差があり、対校選手は偉い存在であった。  

    合宿日誌について

     クルーごとに合宿日誌を書いていたが、普段の練習の様子に加えて、クルーの親睦を深めるような日常的な内容も書いていた。最後まで書いてあるノートは少なく、負けるとそこで書かなくなってしまうことが多かった。合宿日誌は、普段艇の上では言えないことが言える貴重な場であった。一度書くと、漕手みんなで集まって日誌を見ていた。  

    隅田川の思い出

     一番長い隅田川の6800m*を漕ぐことは、漕手としてものすごくためになる経験だった。勝つということは「禊」である行為であった。隅田川はとても汚い川だったが、漕いでいるときには気にならなかった。河川の汚さよりも、ボートを漕ぐ爽快さを一番に感じていた。*6800mはオックスフォード大学とケンブリッジ大学の対抗戦(1829年~)の長さ(4.4マイル≒6800m)に倣っている。  

    他大学との交流

     他大学との交流は少なかったが、東大とはしょっちゅう話していた。東大も一橋も艇庫にお風呂がなく、つつみ湯(通称土手湯)と呼ばれるお風呂で、東大と話すことがあった。そのほかの大学と話すことは少なかったが、しょっちゅう当たっていた中央大学とは腐れ縁のような関係で、合宿日誌にも中央大学(腐れ縁)と書くほどだった。  

    デンの過ごし方

     家にはあまり帰らず、艇庫でゴロゴロすることが多かった。デンの日にはくたびれていて、自主練習などをする余裕はなかった。
     外出するときは浅草まで映画を見に行くなど遊びに出かけていた。
     普段は授業に行っていたが、デンの日に大学に行くことはなく、艇庫で過ごすか、外出するかのどちらかであった。
     東商戦でのデンの中で印象に残っているのは、同期の小松崎利広さんと内川敏雄さん(共にC組)とご飯を食べに行くときのことである。後から二人がついてくると思って道を横切ったら、二人がタクシーに轢かれていた。手術後2か月で元気になり戻ってきてホッとした。  

    主将として

     主将時代はクルーを纏めること・引っ張っていくことを大切にしていた。バックアップはマネージャーに任せていた。
     常にこんなことではダメだという気持ちで自分を鼓舞し、努力を続けていた。自分に対しても、部員に対しても厳しい態度をとっていた。当時は代表幹事よりも主将の方が、立場が上だった。当時の代表幹事の寺本さんとは二人でよく話をしていた。  

    四神会長時代のこと(平成12年~平成16年)

     当時の四神会は、近代化されていたものの、会長の役職は、依然として名誉職の色が強く、それを機能するものに変革する必要があった。他にも会長候補はいたが、それまで会長を務めていた植松健悟さんから直々に、お前がやれと言われて引き受けた。今までの会長はもっと上の世代だったが、自分の時代から若返りが図られた。副会長の鈴木崇司さんや理事長の木村希一さんとは、よく3人で飲みに行っていた。色々助けて貰い二人には感謝している。植松さんは名誉会長となって、四神会が実働し始めた。当時はKTプロジェクト(K:勝ちをT:取りに行く)を、昭和34年の全日本優勝時のキャプテンの内藤さんを中心に、昭和40年卒の秋山健一郎全体コーチらと、3年ほど行っていた。
     四神会長時代大変だったのは、艇庫建て替えの資金調達であった。基金としては満額集まったが、それだけでは足りなかった。大学側に要請するなど、苦労が多くあった。ボート部ではない如水会員からは、ボート部ではないのになぜボート部の施設のお金を出さなければいけないのかという不満や反対の声も多く上がった。しかし、一橋会歌にはボートの歌(東都の流れ)が出てくるように、ボート部は一橋大学を代表する部活として、兼松講堂の改修基金とともに、艇庫も重要施設として基金に含めることとなった。四神会員、如水会員のお力添えを有難く思っている。  

    全日本の思い出

     S28年に一橋ローイングクラブエイトの整調として出漕した。この年はエイトを二杯出したのだが、一橋大学と名乗れるのは一杯のみであるため、対校以外はローイングクラブエイトとして出場した。
     S29年は、春の東商戦に負け、夏に体調を悪くしてしまったため、エイトでの出場を断念した。その後無事体調が回復し、フォアの整調として出漕した。優勝しようと思っていたが、最後の最後にひっくり返されて2位という結果に終わった。
     S30年は、対校エイトとして出漕した。春の東商戦は水のあかぬ接戦を繰り広げていたが、東大2番のララックが外れ、予想に反し大差で勝利した。夏の全日本は優勝を狙っていたが、結果は2位で口惜しい思いをした。このときのスタートの様子が、アサヒスポーツ9月号の表紙を飾っている。  

    仕事の内容

     三菱化成に務めており、営業をしていた。海外勤務もあり、アメリカのNYにいたこともあった。ボート部員と一緒に仕事をしたことはないが、いろいろな場面でボートの人脈が役に立った。後輩が自分の会社にたくさん来てくれて嬉しかった。  

    ボート部が人生にどんな影響を与えたか

     ボートで培った体力と忍耐力は、人生の中で大きな支えになっていた。他にも精神力や協調性が身に付いた。「主人は病気になった時も泣き言を言わなかった。それはボート部で培った体力と忍耐力のお陰だと思う。ボート部の旧友たちが、辛いときに主人を支えてくれた。この年になっても、このような人々がいるのは、本人も嬉しいし、家族としても嬉しい。何よりもありがたいことだった」と奥様が話して下さった。  




    感想

     病気の後遺症により不自由であるにも関わらず、快くインタビューを引き受けていただき、ありがとうございました。四神会を実働させたという、端艇部史の中でもひとつのターニングポイントとなる出来事に携わった小野さんのお話は、非常に貴重な記録であると感じました。ボート部での経験が、人生における艱難辛苦を乗り越えるために役に立ったというお話は、現在のボート部員の心にも響くことだと感じました。(瀬戸琴子)

    小野先輩、ありがとうございました。