語り継がれるHUBC:14.HCSが育むボート愛と絆


     
     

    町井直行さんプロフィール

    氏名町井直行(まちい なおゆき)
    生年月日1932年(昭和7年)5月22日
    出身地東京都中野区
    出身高校東京都立武蔵丘高校
    入学年1951年(昭和26年)
    卒業年1955年(昭和30年)
    学部経済学部
    ゼミ板垣興一ゼミ
    HCSS組
    勤務先昭和産業株式会社→敷島スターチ
    端艇部での役職COX


    ボート部に入ったきっかけ

     高校時代は野球部に所属。大学に入り野球部からの勧誘を受けるが、断る。大学時代は勉強に専念し、体育会に入るつもりはなかった。ボート部に興味を持ったきっかけはクラスチャンレース。S組の先輩のコーチを受ける。その後7月に、体育授業の単位が取得できるとのことで、向島艇庫で一週間の合宿生活を体験する。その時に当時4年S組主将で対校選手の畑弘晃先輩に勧誘され、入部を決めた。  

    東商戦の思い出

     当時の東商戦は、朝日新聞や毎日新聞に予想記事がのるほど注目を集めていた。力の東大、技の一橋と呼ばれており、一橋は、綺麗だけど力がないと評されていたりもした。
     第4回東商戦にて、ジュニアエイトのコックスとして出漕し、勝利を収める。この大会で初めてジュニアエイトレースが行われた。入部時は続けることを迷っていたが、東商戦のジュニア選手に選抜され、東商戦に向けた合宿を通して選手として活動する中で、なんとなく続けていくことになった。
     第5回東商戦では対校コックスの補欠選手であり、出場する機会はなかった。
     その後第6回東商戦で対校エイトのコックスを務める。東商戦ではリミットフラッグを見間違えて大きく蛇行し、序盤から東大に出られてしまう。その後、大差をつけられ負けてしまった。新聞記事では、コックスの操舵によって大きく蛇行してしまったことが、後の整調の焦りにつながったと指摘され、クルーの一体感やクルーを組む漕手を思いやるような操舵が欲しかったと酷評されるなど、苦い思い出となった。
     

    向島艇庫の様子

     向島艇庫は、風情のある良い場所にあった。桜餅で有名な長命寺の近くに床屋や風呂屋があり、部員が良く利用していた。近所の店にはたくさんお世話になり、店員さんも「ボートのお兄さん、ボートのお兄さん」と親しみを持って接してくれていた。向島艇庫での暮らしは、かなり地元に密着しており、お店ではツケ払いをよくしていた。中には、ツケが溜まって行けなくなるお店ができることもあった。会計幹事から、こっちの肉屋はツケが溜まったからあっちの肉屋に行けなどと言われており、ツケが払い終わるとまたこっちの肉屋…と繰り返しお店を回っていた。
     2年生の9月末、牛島神社でのお祭りに参加したことが思い出深い。そのお祭りは各町内のお神輿が集まるもので、平日で担ぎ手である若い男性がいない時に、神輿の担ぎ手として駆り出された。飯・風呂・お酒付きで1日500円というアルバイトだった。  

    COXの大変さ

     今の整備されたボートコースとは違い、川でのレースは操舵が特に重要である。コースに合わせた操舵方法があった。
     また、リガーが鉄パイプでできていたため、川の水で錆びて腐食してしまい、船の整備も大変だった。腐食したリガーは、コックスが溶接工のところへ修理に出し、また付け替えるというふうに行っていた。
     日常生活では、コックスが漕手のお使いもしており、多くの漕手からジャムかクリームのコッペパンを買ってくるよう頼まれた。当時の艇庫内では、一式と呼ばれる三点セットが存在していた。ラムネ、牛乳、卵の三つである。これらを混ぜて炭酸ミルクセーキを作るというのが当時の艇庫での流行だった。この一式もよく漕手のお使いで頼まれていた。
     コックスは艇の上では一番偉い。でも陸に上がったら召使だった。「The Tyrant on the boat but on the land ,Servant」だ。  

    ボート部以外の学生生活

     大学時代はボート一筋で、週に一度、家に帰る程度だった。
     ゼミの板垣先生には大変お世話になった。非常に優しい先生で、多くのボート部員が板垣先生のお世話になったそうだ。先生には2人のお嬢さんとお坊ちゃんがいて、そのお坊ちゃんに逆立ちを教えたこともあった。
     

    ボート部が活きたこと

     ボートは単純動作の繰り返しでコーチングも難しい。それぞれの動作に対応したコーチングクライがあった。仕事をしていてもそれは同じだ。働く人それぞれに個性がある。一生懸命やろうとしている人に対しては教え方によってチームの力を強くすることができる。
     また、朝日新聞社が招聘し、ケンブリッジが日本に来たときのレースにも出漕した。同レースに出漕した同志社大学の選手と仕事で知り合い、その縁で大口の契約を結ぶことができた。ボートをやっていたときにできた巡り合わせが仕事に活きることもあった。  

    現在のボート部へ

     HCSという校内レースは組ごとに一週間でもいいから合宿して出場してほしい。ボートにのめり込んだのは先輩のおかげだ。当時は、HCSや東商戦、全日本の晩の報告会にたくさんの先輩が駆けつけてくれた。勝ったときは子供のように喜び、負けた時には叱咤激励の嵐だった。戸田で行われた全日本の後は、バスで向島に戻って、座敷で報告会をした。
     同じ組の先輩がする話は、立派な話もあればくだらない話もあるが、どれもボートへの愛が伝わってきた。その愛の分、代表に選ばれたときに、がんばろうと思えた。
     HCS大会で強くなる。HCS大会は同じ組の先輩の顔を思い浮かべながら漕ぐいい機会である。レース後の祝勝会は、先輩とのつながりを実感する良い機会であった。単なる行事として終わらせるのではなく、クルーとして勝つために練習して、並べてほしい。
     また、頭を使うことの大切さも伝えてくれた。スポーツ選手で名選手と呼ばれる人は、皆賢い人たちである。フィギュアスケートの羽生結弦選手も、自らの大怪我を経て、今自分ができるジャンプのレベルと、敵のジャンプのレベルや演技構成を想定し、多少の無理を押して勝負した。そして今回の金メダル。まさに敵を知り、己を知る、の快挙であった。一橋大学の学生は、間違いなくレベル以上の賢さを持っている。ボートでも体力を超える立派な成績を残せると確信している。  




    お話を聞いて

     昔の向島艇庫の様子や、地理的な情報など、現在の地図と照らし合わせて教えていただいたり、HCSへの思い入れなど、なかなか聞くことのできない話をたくさん伺ったりと、非常に貴重な体験をさせていただきました。見せていただいた資料や写真も非常に状態が良く、町井さんのボート部への愛を感じました。こうしてOBさんからお話を聞くことで、改めてボート部の歴史の長さと重厚さを実感しました。この歴史ある一橋大学端艇部の一員であることを再認識し、次は我々が歴史を刻む番なのだなと感じました。折り返しを迎えた現役生活を、より有意義なものにしていこうと思います。(瀬戸琴子)

    町井先輩、ありがとうございました。