語り継がれるHUBC:15.過酷な飯炊き4年間を支えた先輩の存在


     
     

    山下彬さんプロフィール

    氏名山下 彬(やました あきら)
    生年月日1933年(昭和8年)12月28日
    出身地東京都大田区生まれ 小学生の頃、静岡県浜松市へ。
    出身高校浜松北高校
    出身小学校学芸大学附属小学校
    学部経済学部
    ゼミ高橋泰蔵ゼミ
    HCSS組
    勤務先三井物産 大阪支店鉄鋼課・バンコク支店・本店開発事業本部。その後三井建設(現三井住友建設)。
    端艇部での役職マネージャー


    ボート部に入ったきっかけ

     当時スケートが流行していたため新宿のスケートリンクで滑っていたところ、田中宏明さん(昭和28年卒H組)に話しかけられ、「スケートなんかやらずにボートをやれ。向島でクラスチャンピオンシップというのをやるから来い。」と言われた。そして、後にCOXを務める同期の上田一郎さん含め友人たちと一緒にクラチャンに行き、部員の指導により初めて漕いだのがボートとの出会い。この時シックスという6人乗りのボートに乗った。練習はあまり楽しくなかったが、人付き合いの楽しさを理由に入部することを決意。両親には「ボート部に入部すると勉強ができなくなる」「ボートを漕ぐと結核になるのではないか」などといった理由で反対されたものの、なんとか振り切った。  

    ボート部での生活

     2年生になると部員は主な役職が決まり、当時S組キャプテンであった畑弘晃(昭和28年卒S組)さんに「お前は漕がせるには(体重が)軽すぎるが、舵を引かせるには重すぎる。」と言われたためマネージャーとして飯炊きを行った。当時の自分は身長160㎝で体重16貫(約60㎏ )であった。向島の艇庫にはガスが通っていなかったため米はドラム缶で炊き、今の戸田合宿所のように設備が整っていなかったため仕事は大変であった。飯炊きは大体3人程度で行い、メニューは基本的に米と味噌汁と目玉焼きといった簡易的なもの。あまり贅沢とは言えない食生活であり、ご飯が余ると必死になってみんなでじゃんけん(“ファイティング”と呼んだ)をした。白米は先輩方の差し入れによって入手。肉は普段全く食べられず、試合前の差し入れがあるくらい。それでも、向島艇庫では部員みんなで楽しく暮らしていた。  

    ボート部を辞めたいと思ったことは?

     ある。理由は飯炊きが大変だから。今の施設ではそんなことはないであろうが、お湯は全く出ず洗剤も無い。ガス代などの経費は大学側の支援は無かったため支払うことが出来ずに止められてしまったこともある。現在合宿所で暮らしているボート部員には想像しがたい過酷な状況であった。  

    ボート部に入って良かったこと

     やはり人付き合いが増えたこと。飯炊きの仕事は大変であったにもかかわらず4年間頑張れたのも、三堀正太郎(昭和27年卒C組)さんや馬場昭(昭和24年卒H組)さんといった面倒を見てくれた先輩の存在が大きい。今でも当時のボート部員の仲間とは頻繁に会っており、毎月第二木曜日に開かれる一木会では10人程のOBが集っている。  

    大学時代にゼミや勉強で思い出に残っていることは?

     あまり勉強せずボート部一筋であったため特にない。ゼミの高橋泰蔵先生は遠縁に当たり、「どうせ勉強しないからお前が来ると迷惑だ。」などと言われていたものの最後まで面倒を見てくださった。何度もゼミ旅行で温泉宿などへ出掛け、今でも当時のゼミの同級生とは親しくしている。  

    三井物産での仕事

     入社後大阪支店の鉄鋼部に配属され、主に鉄鋼国内業務に従事、大阪支店から直接、タイのバンコック支店に派遣され、数年駐在した。戦後日本の復興期、目覚ましい経済成長を遂げつつあった時期に商社に勤務、とりわけ当時花形部門であった鉄鋼部門に所属し、国内外で存分に仕事が出来たのは幸いだった。 海外での仕事で苦労したことは、仕事上三菱商事と争いになったこと。三菱商事には同期の大岩吉之(昭和31年卒C組)さんや後輩の望月幸正(昭和32年卒C組)さんが勤めていた。ボート部の経験が仕事面で役に立ったと思っていることは、やはり仕事で出会う人にかつてのボート部の仲間が多かったことだ。  

    四神会での募金活動について

     平成23年11月より四神会副会長・大学基金四神会募金委員長を務め、総額1億円以上を集めたことで艇庫改修や艇の購入に貢献できた。その他にも集めたお金は色々な形でボート部の助けとなっていると思う。  

    現在のボート部に対する提言

     対校選手という立場の意味が今と昔では全く違う。当時の対校選手は非常に権威があり怖くて近付けないような人たちで、バッジを付けるなどして他の部員と区別されていた。特にエイトの対校選手は別格であったが、飯炊き係を含む部員たちはその状況に反発することなく受け入れていた。やはり対校選手というのは選ばれた者が得られる立場であり、その他の選手やマネージャーはそれぞれの役割をしっかりと頑張っていくことが大切である。
     また、HCSそれぞれの合宿があってもいいのではないか。当時対校以外の選手たちはHCSで分かれて練習し、合宿生活をしていた。HCSの選手の中から対校に繰り上がる人もいた。
     加えて、当時5月~6月頃に毎年“遠漕”があった。2泊3日程かけて向島から川を上っていき途中に泊まる地では宴会を行うなど、凄く楽しみにしていたイベントであった。遠漕は対校選手やその他の選手、マネージャーなどの役職も関係なく部員全員で必ず行ったもので、ボート部生活の中で一番印象に残っているこの遠漕を、今の部員にもやってほしい。  




    インタビューを終えて

     歴史ある一橋ボート部で今現在マネージャーを務めているという立場で、今回山下先輩からお話を伺うことが出来たのは非常に貴重な機会であった。普段の艇庫生活の中で当たり前に享受していた便利さも当時は決して当たり前のことではなく、先輩方が積み重ねてきた苦労と時間の産物であり、部員の一人一人がその有難みを忘れてはならないと強く感じた。また、インタビューにおいて一番印象的だったのは「人付き合い」の大切さを何度も強調されていたことだ。誰かと深く関わることが必須ではない大学生活において、このボート部で仲間と共に四年間を過ごすことを選んだ私たちの選択は、今までの先輩たちと同じくらい価値あるものであり、これからの毎日をより一層大切に過ごしていかなければならないと思う。 (実吉真希)

    山下先輩、ありがとうございました。