語り継がれるHUBC:18.応援部創設をやり遂げた誠実の人


     
     

    重松成行さんプロフィール

    氏名重松 成行(しげまつ せいこう)
    生年月日1934年(昭和9年)11月15日
    出身地大分県
    出身高校大分県立高田高等学校
    入学年1954年(昭和29年)
    卒業年1958年(昭和33年)
    学部社会学部
    ゼミ山中篤太郎ゼミ
    HCSS組
    勤務先三菱金属
    端艇部での役職マネージャー・応援部創設


    入部動機

     昭和16年に父が亡くなり、兄は医者になるためお金がかかったこともあり、暮らしは貧乏だった。そのため、浪人時代も昼間は働き、夜は予備校に行く生活を送っていた。毎日疲れて帰る生活だったため合格できるか心配していたが、1年浪人して無事一橋大学合格。就職のために、自ら一番有名なボート部に入部した。はっきり言って「打算です。」  

    ボート部での1日の生活

     1、2年生の時は午前中2回(早朝1回を含む)、午後1回練習。それ以外は睡眠少し、勉強、部員と雑談などをし、お腹が空いたら間食としてコッペパンを食べていた。固定席(6人漕ぎのフィックス)で尻にドンブと呼んでいたすり傷ができても薬もなく中々治らなかった、そんな時代であった。
     結局のところ、体格から見て「コックスにもなれない」「漕手にもなれない」ということで、3年生になって集金係となった。担当地区は神田。「カレーを食べさせてもらえる」と聞かされていたけれど、出版業が多く余り豊かでなかったのか、集金に行くと嫌な顔をされて困った。  

    応援部創設の経緯

     1956(昭和31)年、3年生になる直前、寺本隆一さんから「東大に応援部があるのに、うちにはないと、どうにも元気が出ないから応援部を創ろう」と応援部創設に何故か私1人誘われた。寺本さんを含む4年生5人(寺本さん、安藤さん、古谷さん、小川さん、永吉さん)と、3年生は私がたった一人で、6人で創設した。寺本さんはFIXERのような人で、大学に行って予算をつけて貰ったり、如水会館に募金箱を置いたり、遂には金融業で硬式テニス部のスポンサーである近藤荒樹さんにお願いしてお金を集めた。近藤さんからは「大金5万円を貸すが返せない筈。ともあれ1年後に何に使ったか報告せよ」と言われたそうである。1年たって私が代表として1人で説明に行った。集めたお金で旗と太鼓を買ったけれど、太鼓はお祭りなどに使う木の胴で大きくてとても重くて移動が非常に大変だった。古谷さんは寺本さんと立川高校の同期で、応援部の初代主将を務めた。安藤さんは、特に何かをする人ではなかったが、「応援部の理念とは・・・!」と叫んでいた。小川さんは東大の応援団長と上野高校の同期で、寺本さんと小川さんが東大の応援部の合宿に行き、それを皆に教えていた。しかし、それがへたくそで我々は陰で「タコ踊り」と言っていた。その後、我々も一緒に東大応援部に行って教えて貰うようになった。だからその頃の応援やエールの交換は東大と同じの仕方であった。永吉さんは自分でトロンボーンを吹けたのでバンド担当。当初ボート部以外は野球部の2部3部入れ替え戦で晴れて応援をしたことがある。しかし、一橋応援部はエールの交換を知らなくてやったこともなかった。相手校の応援団長からエールの交換を教えてもらい、相手校のものを見様見真似でやった。その試合は、一橋はボロ負けであった。ボート部も東商戦で8連敗と7連敗の実績があり、惨憺たるものだった。4年間1度もエイトが勝ったのを見たことがない応援部員も結構いる。ある部員が4年生の時、初めて商東戦でエイトが勝ち、号泣したシーンは今も忘れられない。  

    応援部の創設で大変だったこと

     4年生引退後、他に部員はいたが、3年生の私1人で合宿や練習の企をするのが大変だった。さらに、応援しても負けるし、応援するのはボートばかりだったので、正直辞めてやろうかと思ったほどだった。しかし、自分のモットーは「誠実」で、途中で放り出すことはしなかった。
    その後応援部もブラスバンドが出来たりしたけれど、楽器だけをやりたい人と応援をしたい人が対立し、楽器だけをやりたい人が辞めていったこともあった。今では応援する種目も増え、応援部全員が楽器を交互に使える者が特に女子部員に多く、マスコミにも紹介されて特徴ある応援団となっている。  

    戦前の応援団との違いは何ですか

     戦前はレースを前にして有志が集まり、全校を挙げて応援団を結成していた。戦後も応援団はあったけれども、人が集まれば結成するという形であった。それを見て寺本さんが、「これではだめだ!」と思って常設の応援部というものを創設したわけである。その発想力の素晴らしいこと。  

    ボート部以外の学生生活

     寮には出たり入ったりしていたが、通算2年くらい寮で暮らしていた。夏休みは野村証券、年末は大丸などで何回かアルバイトした。
    ゼミは山中篤太郎ゼミで、先生は厳しかった。2回連絡なしに休んだら「破門」ということであったし、勿論予習していかないと先生に怒られた。そのため、自分の発表担当箇所はどんなに忙しくてもかなり予習した。ゼミと卒論の勉強は欠かせなかった。  

    お仕事の内容

     三菱金属に入社。兵庫県、宮城県、秋田県、静岡県などで、鉱山の整備などもした。昭和58年、如水会館に出向になった。如水会事務局長はボート部出身の藤井さんの時代で、如水会館での仕事は、東京会館の管理、建物の補修、地下にある機械のチェックなどで、自分の性に合った。  

    ボート部・応援部が人生にどんな影響を与えたか

     ボート部は、就職のために入部したこともあり、その後の人生に影響を与えたことは特にない。会社に入ってから、応援部出身だからと言われて組合担当となったけれど、そうした仕事は性に合わなかった。
    今、寺本さんのことを考えると、本当に優れた人だったと今でも尊敬している。しかし、もっと違ったやり方があった筈で、寺本さんは理念が勝ち過ぎて実社会では何かが足りなかった印象がある。言わばガバナンス・統轄力とでも言おうか、誠に惜しい人だった。私は、今は応援部と端艇部と両方のOB会に入っていて、楽しんでいる。  

    現役部員へのメッセージ

     自分の場所を持つこと、誠実であること、バックマンとしての自覚を持つことと思う。 応援についていえば、今はレースの種目が多いから、応援のやりがいがあるので見ている方も楽しい。応援部とは、勝っても負けても最後まで応援するのです。  



    インタビューを行って

     今回、普段お世話になっている応援部の創設に関わった重松さんにお話を伺い、応援部創設の経緯を詳しく知ることができて、非常に貴重な経験になりました。新しく応援部を創設するにあたって、練習・合宿や集金や会計などすべてを自分たちで考え、行動しなければならないことは、非常に大変だったと思います。しかし、それらをやり遂げ、現在まで続く応援部を作り上げた、重松さんを含む6人の方々の行動力に感動しました。現在も、応援部の方々の応援はHUBCを活気づける、HUBCにとってなくてはならないものとなっています。そのため、重松さんたちの取り組みが今のHUBCの勝利にもつながっているのだと実感しました。今回、応援部創設の経緯や苦労を知って、応援部の方々、そしてその応援部を創設してくださった6人の方々により一層感謝の気持ちを伝えたいと思いました。お忙しい中、貴重なお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。(小澤奈未)

    上田先輩、ありがとうございました。